高田由良の日記

ギリ健おつかいブログ編

結局社会不適合者ってどうやって出来上がるのか

高田由良

 

最近Twitter見ていて鬱になることが増えました。

私のTwitterのホームに流れてくるツイートは、浮気サレ系1割、惚気系2割、女叩き系2割、震災系2割、そして美容垢抜け系が3割という構成になってる

それで、その美容垢抜け系のツイートとというのが大体、自分の顔のパーツや骨格に悩んでる中高生の投稿で、もはや今どき中高生で当たり前に整形とか気にかけてるんだとか思うんだけど、

自分の中での鬱ポイントが、JKとかの投稿見る度にそもそも私って高校卒業してからもう4年も経ったんだという事実を思い知らされることと、

最近のJCJKのみならず20歳以下の女の皆さん、皆当たり前のように恵まれた人生送ってそうでムカつくんだよなあ

私が年齢を酷く気にし始めたのは今の恋人と付き合ってからで、今の恋人は仲良いネッ友の女性が大体私より年下(上は私と同い年、下はJCにも及ぶ)なのだけど

特に仲の良かった女性が私より2つ下で、私と真逆の人生歩んでて、私の持っていない物全て持ってて、凄く腹立たしかった。

 

いや、そもそも自分は元々何も持たざる者だった
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人生が堕ちていくのって、些細なことの積み重ねだと思う

何処かから周りと履き違って行って孤立して自分に自信が持てなくなる

自分がソレの大きなターニングポイントになったのは明らかに中学の時だと思っている

ここからは自分の人生を振り返ってみようと思う。

自分の人生の振り返りだから長くなる。

 

 

思えば、

自分は生まれた時は陽キャだった。

小学生の頃も、陽キャだった。

でも何処かがおかしい。それは発達障害でもASDでもABCDでも表せない。ソレのせいで自分の人生は落ちる所まで落ちたんだと思う。

 

生まれた頃は、陽キャだった。

 

キレ症でヒステリック気味だが、運動神経が良くコミュ力お化けで面倒見の言い母(陽キャ)、

 

無言で家庭を守るが自分の得意分野になると周囲の空気感も厭わず多弁になるタイプの父(陰キャ)、

 

どちらも共通していたのは、過保護なことと、考えが古臭いところがあることと、パチンカス、ヤニカスであること。酒はどちらも全く飲まない

 

8歳上の姉。今思うのはやっぱり現代の若者だから両親よりは理解があって、両親よりも頼りたいと思える。

姉は産まれてから今までずっと陽キャ。中学ではソフト部のキャプテンだったし、高校では吹奏楽部の部長だったし。当たり前に就職して当たり前に社内恋愛で当たり前に結婚して当たり前に子供2人いる。当たり前に一軒家も買ってる。

 

自分がまず両親のどっちの血を濃く継いだのかというと、やはり父だろう

 

というか両親の悪い部分しか引き継が無かったと言いたい

 

父はどうか知らないが、母は駅伝選手になるほど運動神経良く、明るく、活発な性格なのにも関わらず、

自分は運動神経が全く無い、性格はのんびりマイペース、それでいてヒステリックな部分は色濃く受け継いでいる。

 

自分の知っている分野の話題が出るとうんちくを披露するかの如くぺちゃぺちゃ喋るのは父親譲り

 

ジジイみたいな喋り方しちゃうのも父譲り、もしかしたらひねくれやすい性格も父譲りかもしれない

 

私は小学生まで友達が沢山居た。陽キャだった。

小3くらいまではしょっちゅう陽キャの子たちと4人位のグループで一緒に遊んで、お互いお泊まり会とかもしたことがある。

 

同級生にオタクな陰キャ女子も明確に居た中で陽キャだった。

 

だけど、幼稚園まで自覚出来なかったおかしさが、小学生になってから顕になり始めた。

 

まず、上履きや靴を何度注意されても左右反対に履く。治らなすぎて皆の前で怒られたことがある。

靴のかかとはずっとふんでる、体育帽の顎にかける白ゴムは噛みすぎて伸びてヨダレで黄色くなってる

鉛筆も噛む。どれも周りが当たり前にしてないことを注意されても直せない

 

怒られたことや、恥ずかしかったことを思い出す。

 

小3の頃、担任がスパルタ体育会系で、体育の授業が地獄だった。

 

自分のクラスだけ毎授業最初に校庭13週とか、エンドレス馬跳びとか、運動神経皆無の自分にとってはとにかく地獄のカリキュラムのオンパレードだった。

 

今思えば多分その時から親のタバコの受動喫煙とかで喘息だったんだろうけど、診断も受けずに自覚しないまま13週走っていた

 

それも個々人で自分のペースで走るんじゃなく、軍隊みたいに2列とか4列になって皆で整列したまま走るタイプ

 

だからついていけなくてもついて行かなくちゃいけない。勿論体力は続かない。走り終わった時はいつも呼吸がヒューヒュー言っていた

 

でも自分以外の全員は当たり前のように最後まで崩れず走っていた

 

エンドレス馬跳びは、馬跳び失敗するのが怖かった。

 

だって失敗したらその女の子の頭とか腕とかを蹴ってしまうことになるし、その後謝るのが本当にキツかった

 

しかも毎回飛ぶ相手が違うので背の高かったりガタイのいい女子だとより難しかった。

というか事実半分くらい失敗してた

そのような感じで、体育の授業では見せしめのように怒られることが多かった。

 

小4の頃、50m走を測ってて、自分の番になって走っていた途中、自分が走っているレールがどこか分からなくなり、隣で走っている女の子にぶつかって怪我をさせてしまったことがあって、周りの人に怪訝な目で見られた。

 

長縄で、自分が飛ぼうとした時に引っかかって転んだ拍子にズボンがパンツごと脱げかかって大恥を書いた。

 

小4の時、たまたま隣になった女の子と意気投合して、休み時間も帰りの時間も一緒に居るようになった。けど、それまで一緒に居た当時親友みたいな立ち位置だった子を裏切る形になってしまい、

結局隣の子には些細なことで嫌われ疎遠になり、

小5に上がって親友みたいな子とまた同じクラスになるもツケが回ってきたかのように親友の居るグループから受け入れて貰えず、初めてぼっちになる

その時の担任がハゲのおっさんで、

休み時間に1人で自分の机に居るとそれを見兼ねて呼び出してきて、手を握って慰めてきて、気持ち悪かった

 

中学に上がって、たまたま美術部見学で一緒になった2人(以下、AとB)と意気投合し、一緒に居るようになる

 

LINEで3人だけのグループ作って毎日夜まで雑談してたのが懐かしい。

 

あの頃が人生で1番幸せだったかも

 

でもこの日々が長くは続かなかった。

 

担任の粋な計らいで、3人同じクラスになれた。

 

勿論四六時中一緒にいる。どんな活動も同じグループになる。

 

パスート学習という名の学校独自の取り組みがあった。

グループで興味のある施設に訪問し、興味のある分野を調べて発表するというもの。

 

驚くことに先生抜き 本当にそのグループのメンバーだけで、果ては東京まで足を運ぶ。

 

私たちは上野動物園を選んだ。

 

しかしそこで私達は折り合いが合わなくなる。

 

友達は両方怠け癖があった

 

Aはそれに付け加え病弱?で、学校を休むことが多い

 

Bは指示されないと何もやらないタイプだった

 

自分もリーダー的人間じゃないから、本当に苦労した

 

殆ど自分で段取りを決めたり、アポイントを取ったりした。

 

結局Aは、パスート学習当日になっても来なかった

 

Bと2人だけで上野動物園に赴き、スタッフ室に行き、学習テーマについての話を聞こうとした

 

そこにいたスタッフの爺さんは宮崎駿みたいな人で、確かに取ったはずのアポイントを貰った覚えがないと言う。

 

忙しいのになんでこんなことしなきゃならないんだとか言われた記憶もあるが、覚えてない

 

とにかく泣きそうになったのは覚えている

 

そこから、Aに対する憎しみが深まったように思う。

 

休まれた代わりに自分が負うことになった苦労も知らずに、ずっとヘラヘラしているからだ。

 

記憶があまりないが、ある日Aに死ねとLINEで送り、Aの姉から二度と関わるなと言われた覚えはある。

そこからAとは関わることは無くなった。

 

 

 

3年からはBと一緒だったが、そもそもBは1人が合ってるタイプだった。

学校ではずっとラノベを読んでた。

LINEでは相変わらず雑談して、暇も潰せるが、学校では2人組とかが必要な時だけ一緒になる程度だった。

 

結局中学は、卒業式が終わるとBにも一言も挨拶しないまま、足速に親の車に乗りこみ家に帰った。

 

中学時代は、もう2つくらい大きな出来事があった

 

1つは、全く別の友人(C)との事だ

Cは私のことを友達とも思っていたし子分とも思っていた。クラスが一緒になった事がないから関わりが薄かっただけで小学生の時から家に行き合うくらい中が良かった。

中学に上がってからもっと仲良くなって、LINEでも話していたし、ソイツに当時ハマっていたツイキャスを教えてやって、2人でコラボ配信とかよくしてた。

そこからTwitterツイキャスではネッ友の男2人と4人でよくつるんでいた

Cは配信の適性?があるというか元々目立ちたがり屋なので、ものの見事にキャス主という名に相応しい存在になった。

ピアノが引けるので弾き語りライブでよく人集めてた。

しかし、ソイツとも学校でいざこざが起きた。

 

Cは生徒会選挙に立候補した。立候補するには推薦者が必要で、推薦者になってくれと頼まれた。

友達だから快諾した。でも、CもAと似て病弱?で、よく学校を休んでいた。

結局、襷作りや演説の原稿作り、リハーサルへの参加など、ほとんどの仕事を自分1人でやる羽目になった。

襷作りは姉に手伝ってもらって家で徹夜で作った。

 

忘れもしない。その日の放課後にマーカーが必要で職員室に取りに行ったら、色んな先生にタライ回しにされ、それを見兼ねた先生に何故か嫌味を言われた。

 

Cは演説の日には流石に出席し、やり遂げたが、当選はしなかった。

でも褒められたりするのはCだけで、自分はあくまでただの推薦者にすぎなかった

特に注目を浴びることも成績に反映されることも無かった。

 

もう1つの出来事。これは私の人生が右肩下がりになる潤滑油と言っても過言では無い。

 

ある日、体育の授業の前にセカンドバッグから体操着を取り出そうとしたら、猫の小便臭かった。

 

家の猫におしっこをかけられていた。

 

もうすぐ体育の授業なので着ない訳にもいかず、

今思えば事情を話すなりして対処すれば良かったものを、そのまま着て体育の授業に出た

 

その日のことははっきりと覚えている。

 

すぐに臭いに気づくクラスメイト達。

 

「くさくない?」という言葉も確かに聞こえたが、皆それ以外は口に出さずとも自分を避けて居るのが伝わった。

 

隣の席のジャイアンみたいな男子からは机を離された。

 

帰りの準備をする時間、できるだけ臭いを振りまかないよう、動かずに座っていたら、

クラスの優等生みたいな女の子が、紙を机に置いてきた。

中に何か書いてあって、文章は忘れたけど、

「皆避けてるけど気にしないで」みたいなことが書いてあった気がする。

ここで自分の恥ずかしさが限界突破した。

 

そこから、対人恐怖症を患った。

その派生で、会食恐怖症、脇見恐怖症、吃音症、呑気症(それによる過敏性腸症候群も)を一気に併発した。

 

普段生活していて、他人のいる空間に居る時、自分の視線は常にどこを向けていればいいのか分からなくなった。これは今も治らない。

会食恐怖症は、過去の日記に書いてあるとおりだ。これも厳密には治ってない。

 

吃音、これのせいで国語の授業が一気に辛くなった。音読やスピーチはおろか、ひとつの文章すらどこかで言葉を詰まらせてしまう。

これも治ってない。

 

呑気症は、静かな空間で唾液がひたすら分泌されるのがひたすらにストレスだった。

 

この出来事がきっかけで、中学2年生から高校卒業するまで、(コロナによって違和感無くしているだけで今も)毎日マスクが欠かせなくなった。

 

加えて、自分は中学に上がってからギャル系の女子に目をつけられ普通に虐められていた。

きっかけは生理の血が体操ジャージのズボンに漏れて染み付いていたことに気づかず過ごしていたことだろうか。

そいつらの前を通り過ぎようとすると確定で指を刺され目配せでコソコソ何かを言われるので、極力通らないようにした。

 

自分は左利きなのだが、その女子が自分の斜め後ろの席に居た頃、授業中に、「左利きってなんかキモいよねー」と言われたことがある。

 

高校に上がったあとでも、帰りの電車で居合わせてしまい、「死ねよ」と言われたことがある。

電車を降りた後で、その事が頭から離れず、自転車で用水路に落ちてしまい血だらけになった。

 

 

高校時代については、会食恐怖症の日記に詳細が書いてあるが、お察しの通りの学校生活だ。

 

タダでさえ偏差値も低い制服もダサい田舎の公立だったが、生徒は皆良い人だった。

 

ぼっちの自分に手を差し伸べてくれた。

 

でもその時の自分にはもうその差しのべてくれた手の受け入れ方が分からなくなっていた。

 

彼らの優しさには応えられぬまま、孤立したままだった。

 

高校の時は、毎年春休みになると自殺未遂していた。

 

高校に入る前の春休みには首吊り、高校2に上がる前の春休みにはヘリウムガス、高3に上がる前の春休みには煉炭。

 

結局4ぬ勇気がなく、使用した自殺用具は親にバレぬようクロゼットの奥へしまった。

 

途中から転校して通信制の高校に通った。過去のブログ「校則について」にて詳しく書いてある。

 

通信制はただ楽だった。

月2日しか通学しなくて良いし、その2日以外は本当に家でレポート書いてればいいだけ。

しかもそのレポートも学校に行かない分、量が多いとかでもなく、片手間で終わる程度だった。

 

週に土日しか入れてないバイト以外の平日は家で命令された家事をやってればいいだけの生活だ。

 

といっても、結局教習所に通い詰めの生活だったのだが。

 

進路は、親に大学へ行きたいとカマをかけてみたところ、

 

「どうしても学びたい分野があるとかじゃないと行かせられないよ!ウチはそんな金無いんだから生活費も入れてもらわないと困るんだから就職選んどきなさい」

 

みたいなことを言われて、ネットに程よく毒された今時のマセガキ達はこれを聞くと真っ先に毒親だなんだと思うだろうが、当時の自分にとっては進路とか考えたくもなくて、親に流されるまま就職を選んだ。

 

思えば高校選びの時から商業高校選ばされてたし、私が自分から就職を選ぶように就職に偏った考えをじんわり教えこまれていたのかもしれない。

 

商業高校時代に取った簿記3級やその他の片手間の資格でようやっと正社員で入れた事務は、川越(ほぼ狭山)の端くれにある工業地帯の工場だった。

 

見るからに中小企業の中でも下の方なのに、支社が全国に結構あって、入社式は四国の本社でやる予定だったがコロナでリモートになった。3泊4日でしかも山登りとか大声スピーチとかあったから本当にラッキーだった。

 

自分の勤務先の工場は1ヶ月後に私の住んでいる所の近くに移転するので、それまでマンスリーのレオパレスを借りて住んでた。

 

レオパレスに住んで(社会人になって)すぐの頃に、初めての彼氏が出来た。

 

彼氏はよく遊びに来て、会って二回目くらいですぐ初みくすもしたし、実家から会社に通うようになっても毎週会って、付き合って1年で同棲もした。

同棲中は自分の貰った給料をスマホ代以外彼に渡していた。

しかしすぐに、途中で何度も浮気をされていた事が発覚した。

付き合いたての頃、安い給料から貯めて捻出した10万で彼にプレゼントしたiPadも浮気に使用されていた。

 

 そこから自分は些細なことで癇癪を起こして家中の物を壊すようになった。

 

彼のことも信用出来なくなっていたが、別れると生きる理由が無くなるくらいにまで依存していたので別れることが出来なかった。

 

彼氏が私を止めるために殴って傷害で捕まるまでの1年間同棲生活は続いた。

 

実家に帰ってからは、寝たきりだった。というのも自分は恋人(依存先)が無いと生きていけないので、恋人が居なくなってぽっかり穴が開ききって死ぬことしか考えないでいた。

 

親に保険料の催促が〜とか時々言われるけど親名義だし自分は今無職で金が無いから気にしなかった。

 

この時、自分の人生はいつの間にここまで落ちてしまったんだろうと思った。

 

自分は自分の人生で努力することもしたくない。

 

 

でも、今の自分と同年代の年下の女が、私の人生みたいな経験をしてきたとは到底思えない

 

私の高校時代は1人で目立たぬように過ごし、Twitterで日々淡々と壁打ちしているだけだった。

 

かたや2歳下のある女は、その高校生活の間で、私の好きな男にまで惚れられ、高校生であるにも関わらず高級店にも連れて行って貰えていた。

 

この落差って一体何なんだろう。どのようにして生まれるんだろう。

 

自分は高校時代は勿論、卒業してからの4年間に何の意味も感じていない。

 

ここまで書いた不幸自慢も世の中のあらゆる事象から見たら些細なことである。

 

でも、

誰かこの些細な出来事の積み重ねがきっかけで人生がだんだん右肩下がりに落ちていく現象に名前を付けてください

 

終わり

 

お久しぶりです、高田由良だ

このブログの過去の日付見るに大体1年越しベースで更新したくなるようだ

前回、最期の日記と称した大々的なブログをアップしましたが、結論から言いますと、4んでおらず、今でもピンピンして生きております

別に病院沙汰にもなってないですし、何なら今に至るまで1度も病院利用してない

なので今日は、あの日から今に至るまでの経緯でも語ろうかと思ぅたのですが、

私が産まれてからの人生そのものの話をしたいと思います。

次の日記で。

自殺前

高田由良

この記事は予約投稿で、10月25日に投稿されるように設定してあります

この記事が今見れるということは自分が自殺に成功したか、失敗して植物人間もしくは全身麻痺になりこの予約投稿を削除する操作が出来ない状況にあるかのどちらかであるということになります

今回は、今現在自殺をまじめに考えている人に向けて、

自殺の準備も終わり前段階に到達した今の自分の心境や状況を書き残したいと思います

 

自殺の道具自体を一週間程前に購入し、

今に至るまで一度も使用しておりません

今回はシンプルに練炭自殺を選びました

理由は痛いことと苦しいことが大の苦手だからです

苦痛なく死ねる方法で有名ですが、

自殺スレなどを見ると、入念で複雑な準備が必要であるとのこと、

自殺防止や医療のサイトを見ると、苦痛がないは大間違いなど、様々な意見が散見され、

結局のところは実行するまで真偽がわからないという結論に至りましたが、

練炭自殺未遂をした人のブログを見て、途中で意識を失うとの記述があり、

理由のない安心感に後押しされ、この方法を選びました。

 

用意したもの

・七輪7個

練炭コンロ2個(使わない予定)

・ヤシガラ炭 2個セット×7 (使わない予定)

・マッチ練炭8個セット×1

・マッチ

・ガムテープ

・酒1缶

ドリエル4錠

 

実行の流れ

まず、最低24時間は寝ていない状態を作っておきます

これは、練炭に火をつけた後、確実に睡眠状態にならなければならないことと、より気絶に高い深い睡眠を取るためです そうでなければ、煙たさや異臭が起こった際、気になって眠ることができなくなるからです

当日は、1日〜二日徹夜し、さらに保険でお酒とドリエルを飲んでから実行する予定です

 

朝の6時半頃、母親が父親を駅まで送っていくので家に誰も居なくなります

そのタイミングでお酒とドリエルを飲んでおきます

7時頃母親が帰ってきて、洗濯物を干した後7時10分頃母親も仕事へ行きます

この時点で家に誰も居なくなります

母親が家を出たらすぐに、

実行場所のトイレへ行き、まずは中に飾ってあるもの(カレンダーや芳香剤、トイレットペーパーなど)を外へ出します

次にガムテープで必要箇所を目張りします

使用する七輪に練炭をセットしトイレ部屋に配置していきます

火を付けます

眠気が来たら終わりです

 

このような流れになります

トイレの広さは2.5畳程

練炭は8個もあれば十分だと思っておりますが、余裕があればヤシガラ炭も追加しようかと思います

目張り箇所は事前に確認したので、火をつけるまでは10分もかからないと思います

親が帰ってくるのが18時半頃なので、

一酸化炭素中毒が侵攻するのが10時間ほどでしょうか

この10時間が、個人的に一命を取り留めるか死ぬか微妙なラインなのではないかと考えております

遺書には命があっても延命はしないようにと書き残してはおきましたが、

調べたところ、この日本では脳の機能が死んでいても、全身が麻痺して二度と動かなくなっても、肺にチューブを繋がなければろくに呼吸ができない状態になっても、心臓さえ動いていれば問答無用で生かされるとのことで、

懸念点の一つでもあります

とはいえ、この段階まで来るともはや、最悪の状態で生き残ったら生き残ったでもうその時だと割り切れるようになりました

自分の場合、記憶が無くなれば死ぬ必要が無くなるので、記憶喪失でもなってくれれば病院生活も悪くないと思いました

 

今の自分の心境 生活状態について

自殺自体は20日くらい前から考え始めました

その際、最後の晩餐と称して買いたいものを買いたいだけ買ったり食べたりしました

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スーパーで毎回見つける度美味しそうだなと思いつつ素通りしていたステーキなんかも初めて買って食べました 美味しかったです

 

 

数日前から本格的に自殺の計画を立てました

その日から、明日徹夜して、明後日の7時頃実行しようというふうに考えては居たのですが、

上記にある、最低24時間 寝ていない状態を作るというフェーズがどうしても達成できず、

結果ズルズルと生きてきて今に至ります 

親に絶対にバレてはいけないということもあり、不自然な行動を取れないため、

深夜はどうしても布団の中でスマホをいじるくらいしかやることがなく、

どうしてもどこかのタイミングでいつのまにか寝落ちしていて、朝を迎えていたり、

昼や夕方に寝落ちしてしまい睡眠時間を取りすぎた結果徹夜しても24時間に到達しないなどで、ここの段階でだいぶ手こずってしまっています

一昨日、良い感じに眠気をキープできたので、親が起きる前の早朝4時くらいに、あらかじめ買っておいた標準サイズの氷結を、生ハムをつまみに飲んだのですが、元々お酒が飲めない上にしばらく飲んで居なかったためか、半分も飲んでいない段階で気持ち悪くなりベッドに横になり、また気づいたら寝てしまっていました

 

最近は毎日誰とも会話をしておりません

話そうと思えば話せる人は居たのですが、こちらから全くアクションを取らなかった結果、何も来なくなりました

死ねなかった日は時間を食いつぶすように生活しています

何をしても楽しくないので、スプラトゥーンも3戦ほどして辞めてしまいます

YouTubeの、ホームをずっとスクロールして、なんとなく再生して、ぼーっとその画面を見続けて、時には寝落ちしてしまったり、

色々また考えごとをして死にたくなったり

夜ご飯ができると親に呼ばれて、飽きたら食べるのをやめて、そのままお風呂に入って、出たら自分の部屋のベッドの上で、またぼうっとYouTubeの動画を眺めています

それくらいしかやることがありません

○○○にいた時と感覚としては何も変わらない、早く終わりにしたい生活を続けています

今はただ、寝ないように気をつけて、起きていられたら実行するよう時を待っている状態です

たちがわるいのが、寝落ちして睡眠から目覚めると、一時的に気分が落ち着いて、自殺したい気持ちが薄れてしまうことです

その結果、情緒が安定してしまい油断が生まれ寝落ちしたりしてしまいます

死ぬのが怖いといらぬ不安を感じることもあります

そういった場合は、今までの幸せだった生活などを想像すると簡単にまた勇気をとりもどせます

こうやって毎日自殺前の段階で失敗し、一日を過ごす度に自殺したい気持ちが根本的に薄れてしまっているのを感じます

もしかしたら、生きていればまた元に戻れる可能性があるのではないかとか、好きな人と会えて幸せになれるんじゃないかとか、そんなことまで考えてしまいますが、そんな有り得ないことに想いを馳せて、いつまでもそのことを考えて独りのまま満たされぬまま虚無感と共に生きていくのはやはり耐えられません

死んだ後の自分がどうなるかも、若干怖い気持ちでいます

昨日死んでいたら、今日上がったYouTubeの動画は見ることができなかったし、

一昨日死んでいたとしたら、誰々が今日なくなりましたというニュースも知ることが無かったであろうし、

今日死んでいたら、もしかしたら明日、ダイレクトメッセージとかが来ていて、自分はそれを読んで内容を知ることは無いんだなとか、それらがもしかしたら私が自殺する理由を無くしてくれる可能性もなくは無いのかとか、

考えれば考えるほど不思議な気持ちになります

かたや自殺をした人達の中には、「楽しいまま終わりたい」と何も深く考えずに突発的に死んでいった女子中学生なんかもいて、そう考えると自殺するのはそんなに怖いことでは無いのかとか、色々考えてしまいます

自分は本当はどうするべきなのでしょうか?書いていて分からなくなってきました

でも自分は現段階では生きる理由が全くありません

でも生きていたらもしかしたらいつか生きる理由を取り戻す可能性もある

でもそんな不確実なことを夢見て、生きる理由もないまま時間を食いつぶすように、○○○にいる時と同じ毎日を過ごすのが苦痛です

自殺してはいけないのだとしたら、何をしたら自分は救われるのだろうか

自分はこれから単純な作業で、寝るだけで死ぬことが出来るのですが、だからこそまだ早いんじゃないかとか、要らぬことを考えてしまいます

自分は誰からも求められていないのに

高校の時の人たちについて

高田由良

今回書くのは商業高校の方です。

校則についての記事で学校や先生を下げた後に書くことでは無い気もしますが

学校や先生は好きじゃなくても生徒のみんなは優しかったので共有しておきたいと思います。

まず一番最初に思い浮かぶのは、やはり前回の会食恐怖症の記事でも書いた、

私をご飯に誘ってくれた明るい子たちです。

みんなバスケ部と、陽に陽を重ねた人たちでしたので、そんな対極に居るような人間ですら私に気さくに声をかけてくれるのです。

当初自分は人と触れ合うのも億劫で、避けられてもいいから一人で居ようと決めていたので異例の出来事でした。

それだけではなく、その時のクラスはギャルな子でもチャラい人でも、その場に私が居合わせている時、

まるで元からの友達のように、いきなり「あ、そういえばね、こないだ行ってきた試合で○○先生と会ったんだけど、由良ちゃんの中学の時の先生だよね?元気そうだったよ~」と、様々な話題で私に声をかけてきました。

私は決して自分から人と触れ合うことはしないのにです。

お互い自己紹介もなしに、「そういえばね〜」と話しかけてくれました。色んな子が

それが高校時代一番の感動だったかもしれません。

学校といえば閉鎖的で各々グループを作り行動するのが当たり前だと思っていましたが、その概念を見事にぶち壊してもらえました。

テストの点が良いと、たまたま隣の席が勉強に関しての努力家でクラス内で有名な子で、

点数を盗み見されて凄いねと褒められたり、

私は運動神経が悪く足が遅いのですが、体育の授業の時、長距離のタイムを測るのに、私が明らかにみんなのずっと後ろをぽつんと走っていると、毎回皆んなが固まってる場所を通り過ぎる時、「頑張れ」は勿論、「ペース同じにして走りな」などのアドバイスを声掛けしてくれました。後者は野球部の男子に言われました。

電車通学だったのですが、同じクラスの男子がたまたま同じ最寄駅で、帰りに鉢合わせるといつもお疲れ様や、また明日ねと言ってくれた事もありました。

このコミュニティはまるで楽園のようでした。

皆が皆平等だなあと感じた高校生活でした。

いじめなどの問題が多く取り上げられ、いじめがない所の方が珍しいと言われる昨今では、私は運が良い幸せ者だったんだなと今は思います。

こうやって、優しくしてもらった思い出はいつまでも忘れてはいけないものだと思います。

会食恐怖症について

高田由良と申します。

「会食恐怖症」と検索してきちんとこの記事が出るかどうかは分かりませんが、

もし会食恐怖症当事者の方が今この記事をご覧になられているのであれば、是非私のこれから書く体験談を読んでみて欲しいです。

 

私は医院にかかったことは一度もなく、診断を受けた事も一度も無いですが、

中学2年の頃から高校卒業に至るまで対人恐怖症に罹っておりました。

中でも自覚症状が顕著として見られたのが、今回お伝えする会食恐怖症というものです。

これは調べたところ対人恐怖症の中の一種らしく、自分が思うに、対人恐怖症の中でも一際理解を得るのが難しい恐怖症だと思います。

自分の場合、明確に症状が出たのがいつ頃かは曖昧であり、気がついたら発症していたという感覚ではありますが、他の対人恐怖症と全く同じタイミングで発症しました。

ここから主な体験を書き記していきたいと思います。

 

中学2年の頃より、給食の時間が毎回苦痛になりました。

私の通っていた学校では、給食の時間になると、大体5人ずつお互いの机を向かい合わせにくっつけて、一つのまとまりを作ってご飯を食べる形式をとっておりました。

私の会食恐怖症の主な症状は、

・周りが静かな場合、自分の咀嚼音や嚥下する際の音が過度に気になってしまう

・食事中、周りからの視線が常に気になり、食べ物を口に運ぶタイミング、食べ物を口の前まで持ってきた時の口の開け方、食べ物を口の中に入れて閉じるまでの一連の動作に常に意識を寄せ、気を使ってしまう

・咀嚼中の口の動きも変になってはないかと怖くなる

・結果、咀嚼の仕方が機械的になってしまったり、物を飲み込むのが非常に難しくなる

 

といったものになります。

まず基本的に何を持っても手が微妙に震えて、器を持つ際にも意識を集中させていました。

汁物は大体器に口をつけて飲むと器から口に伝って水滴が垂れてきました。

特に炭水化物系の入れ替わりで出てくる麺は、食べ物の中でも一番の天敵でした。

まず自分はフランス人でもないのに麺を啜るのは汚いと考えるようになり、音も出せずに麺をある程度箸に纏わせてそれを口の中へ入る分だけ運び、その時点で啜ることは一切せず噛み切っていました。

ですので最終的には細々とした麺の残骸のみが残り、私の通っていた所は完食主義寄りで基本的に麺類はスープまで飲み干す者が殆どだったため、残った残骸たちとスープをまとめて口に入れるのは至難の業でした。

完食主義寄りの私の学校では器の内側に残った僅かな米粒も、片付けの際に周りの目についてしまう程ですが、そんな中でも器の内側に残った麺の残骸一つに、再び器を持ち上げたり、はたまた箸を使ったりなどして動作を起こす余裕すら当時の自分にはありませんでした。

側から見ると、物を食べるのが下手くそという感じだろうか。

給食では、会食恐怖症が顕著になってから給食を上手い具合にバレずに全て戻すこともたまにありましたが、担任に言及される事も度々あったので野菜だけは残して食べるようにしました。

今思えば、毎日野菜以外全て戻す生徒なんて同級生から見ても先生から見ても何か問題を抱えていると考えられてもおかしくないのに、担任にぽつぽつと一言添えられるだけだったのが不思議に感じます。

魚などのメインディッシュやごはん、麺は、中学3年生になってからは一度も食べていない気がします。何より綺麗に食べたり、完食するのに労力がとてつもなくかかりますので、これらは自分の中で毎回戻すと決めていました。

ヨーグルトなんかも、スプーンで口に運んで上唇にヨーグルトがついた際に、それを排除する方法が思い浮かばず、舌で舐めとるなどもってのほかという感覚であったため食しませんでした。

担任からは度々嫌味や心配事のようなものを一言呟かれたりしましたが、自分にとってはそれどころでは無かったので気にも留められませんでした。

それくらい、当時の自分には、毎日この時間が苦痛でしかありませんでした。

給食のみならず、他人との会食は全て苦痛でした。

ファミリーレストランに行った際でも、近くにちょっと賑やかな人達が座ると、口を開ける動作が重くなります。親をついたてにしてなんとか普通に食事が取れる程度です。

私が当時普通に会食出来たのは、親くらいでした。

 

同じ中学の人間が誰もいない高校に入りました。

そこの高校では昼食は弁当でした。

弁当システムは自分にとっては神がかっていると言っても過言ではありませんでした。

何故なら一切食べなくても不自然に思われないから

そもそも昼食自体、昼休みの時間と合わさっていたので、机をくっつけたりして、強制的に会食させられるシステムでもなく、個々が自由に過ごせる形をとっていました。

だから私は、最初から昼休みになっても飯なんか食わずスマホでもいじってようと決め込んでいました。

しかし、この学校に来て初めての昼休みを迎えた時、

優しい女の子グループに声をかけられてしまったのです。

みんな明るい方の人たちでした。何故か私の名前を既に把握されており、下の名前+ちゃん付けで私を呼びながらこちらへ歩み寄ってきました。

一緒にご飯を食べようと誘われてしまいました。

弁当は毎日親が作ってくれることだったので、弁当自体は持ってきてはいました。

こんな自体は想像もしておらず、皆自分が思ったより遥かにお互いがお互いに興味津々だったようで、こんな自分にも声がかかりました。

どうしたものか、とりあえず弁当を広げ、引き攣った笑顔のまま下を向きつつ、内心汗をだらだらとかきながら、投げかけられた質問には答えつつ、ちびちびと慎重に食べ物を口に運び続けました。

皆がトイレに行ったり、よそ見しているタイミングでまだ半分以上中身が残っている弁当を畳み、食べ終わったよありがとうと言って、その時はおかしさを残さずやり過ごすことができたように思います。

次の日、また次の日と呼ばれましたが、やはり中学の時の感覚が引き摺り、ましてお互いを認知してまだ数日も経っていない人間に、緊張が解けるはずもなく、寧ろ日に日に症状は大きくなるばかりでした。

なんとかその日をやり過ごしても、いつか必ずボロがでる

そう考えて、高校生活五日目を迎えたくらいで、いつも呼んでくれていた子たちに断って、昼休みはトイレで過ごすようになりました。

本当の便所飯を思わぬ形で体験したのはその時が最初で最後でした。

数日間、トイレの個室でおにぎりだけ食べました。人が来る前にと急いで食べました。

ですが、やはり皆んなが普通に過ごしてる裏で自分がこんな惨めなことをしているのが自分でも耐えきれず、便所飯生活はすぐに終わりを迎えました。

とはいえ、教室にいるとまた優しい子たちから声をかけられるかも知れないのが怖くて、

トイレでひたすらスマホをいじっていました。

トイレで十数分過ごして教室に戻れば、皆ご飯も食べ終わっているので呼ばれることもありません。

毎日たった十数分の辛抱でした。

弁当は毎日家に帰ってから、母親が仕事から帰ってくる前に急いで食べていました。

そうして高校生活をやりくりし、

二年生に上がってからは誰かに呼ばれるという事も無くなったので、少し吹っ切れて週に何回か食堂でポテトフライを買って自分の机で食べるようになりました。

思えば、そこから徐々に嫌な意識は薄れていったかのように感じます。

それでも人が自分の前を通ったりした時は手で口を覆ったりはしましたが、

皆が自分に全く意識を向けてないと理解できるようになってからは、何かを買って他人のいる空間の中で自分で食べるということが苦では無くなるまでになりました。

それから、ファミレスにも慣れ、一人でも顔を隠しつつですがご飯を食べることができるようになりました。

それから完全に会食恐怖症を気にすることが無くなったのは、高校卒業後正社員として採用され、人と人並みに接する機会が増えたことと、同時期に好きな人と付き合ったことにより自信がついたことも関係していたのではないかと、今は思います。

会食恐怖を克服できたのは、過去の自分からは絶対に不可能だと思われていたことで、今でも驚いています。

会食恐怖症が原因で自殺を考えていた事もあるくらい、今後どう付き合っていくべきか悩んでいたくらいだからです。

その他、視線恐怖症や、脇見恐怖症、吃音症、空気嚥下など、様々な症状も体験してきましたが、こちらは機会があれば書いておこうと思います。

結論やアドバイス

今は信じれないかも知れないけど、自分もその時は信じてなかったけど、ふとした時に、「本当に皆自分に意識が向いてないんだな」と理解できる瞬間があるので、それを踏まえれば克服できる良い方向に向かえると考えています。

絶対に克服できないだろうなと思われた、対人恐怖症にまみれた人間でも克服できたので、この体験談が誰かの自信に繋がれば幸いです。

お読みいただきありがとうございました。

校則について

高田由良と申します。

これから今までの自分の人生を振り返る投稿をしていこうと思います。

今回のテーマはタイトルにある通り「校則」についてなのですが、

今しがたTwitterのホームをスクロールしていたところ、Yahooニュースの「眉整え大会(これがもう何?)出られず 校則に憤り」という見出しの記事が目に映り、高校生の時の記憶を思い出したのでブログに書こうと思います。

よく、「学校の校則は理不尽」だとか、「何の意味がある」とか、「個性が失われていく」とか、

それに対して「校則や規則を認知し、了承した上で今の学校に入学したんだろう。嫌なら転校すれば良い」等の意見がネットで散見されますが、よくよく考えたら自分って、大雑把に言えば校則が理不尽なのもあって転校したんだなと思いました。

ここから校則についての理不尽体験談を書いていこうと思います。

 

私が高校を転校したのは高3の9月でした。

それまで商業高校に通っていたのですが、商業というだけあって制服がダサいということのみならず校則がとても厳しかったです。

中でも頭髪について。

大体年に4.5回(時期は各学期の始業式の後とか)頭髪検査が行われるのですが、

自分は生まれつき癖っ毛が凄くて、当時は縮毛矯正もしたことが無かったので襟足が跳ねてたりしてました。

私の癖っ毛が酷いのは入学時から変わらない事実なはずなのですが、何も弄っても居ないのになぜか一年時には何も言われず、よく引っかかるようになったのは高二の冬くらいからでした。

今思えば進路を決める大事な時期が近づくにつれ検査が厳しくなっただけにも捉えられますが、入学時から許されてきた生まれつきの体質が今になって拒絶され、何をどう改善すれば良いのか当時の自分には分かりませんでした。

担任の先生に、もっと(髪の毛を)すいてきたら? と言われたので、家に帰って母親に「頭髪検査で引っかかって、髪の毛すいてこいって言われた」と言われたままに言ったところ、母親からは「どうせただ髪の毛切りたいだけでしょ?あと3ヶ月するまで美容院行かないよ」と言われ、先生に言われたんだと強調しても全く話が通じず、

半ば投げやりに、自分でハサミを使い短くしようとしたところ、母親にみつかり、「だからぁ、何で自分で切っちゃうの!?変になるからダメって言ったでしょうが」と怒鳴られ、

ならそっちが切ってよ、と涙目になりながら訴えるも、「だから素人が切ったら見た目変になるからダメって言ってるの、美容院まで待ちなさいよ」と言われ、

私「だから頭髪検査で引っかかったからまた再検査の時が来るからそれまでに切らなきゃダメなの!」と強い口調で言ったところ、

「なら千円カットでも行ってこいや」と1000円札を放り投げられました。

翌日は丁度土曜だったので、昼から父親と、ベイシアの中にある千円カット屋さんに行き、

「前髪と襟足をすいてほしいんですけど」と注文したところ、

「切るだけならできますけどすくのはできないです。あと切るのもちょっと切るだけならできます。」と条件を提示されました。

千円カットに行ったのはこの時が初めてだったので、当時の自分は、「あぁ、千円だけだとここまでしかやらないってことね。」と千円カットの融通の効かなさに腹が立っていたのを覚えています。

結局前髪を謎にぱっつんにされただけで放たれて、再検査前に泣く泣く先生に、「母親に言っても中々話が通じなくて困ってます」と相談もしましたが、「今日もっかい話してみて」と言われるだけで終わり、知恵袋にも藁にもすがる思いで相談を投稿した覚えがあります。

(ちなみに回答は「学校側が悪い」が大半でした。)

きたる再検査当日、放送で言われた時間に職員室に訪問し、近くにいた学年主任に、「再検査で来ました」と用件を伝えたところ、「まずは時間を取らせてすみませんだろうが!」と怒られました。

奥から担任が出てきて、「まぁまぁ」というような面持ちで案内され、結果は再々検査でした。これが高三の春頃だったかの記憶です。

この時からこの学校ではもう頑張りたくないないなあと思ってしまいました。

必修内ではありますが日商の三級も取れていたので、転校したこと自体に悔いはありませんでした。

 

キットカット サマーアイスクリーム味 レビュー

こんにちは。キットカットサマーアイスクリーム味を食べてみたので味の感想レビューをしたいと思います

の前に、私が今回キットカットサマーアイスクリーム味を購入し食すに至った経緯を、ご説明致します。

私は、現在あと1ヶ月で成人になりますが、コーヒー、抹茶、紅茶、酒類が全く飲めません。(つまり子供舌という事だ)

そしてそれに付随してか、オーソドックスではない味のお菓子が食べれません。抹茶は勿論、ラム入りのチョコだったり、何とかビスキュイとか書いてあったり、ミントチョコも何が美味しいのか分からないし、チーズは単体は好きだけどお菓子やスイーツに入っているものは無理、ビターチョコ、アーモンド等もあまり好きではない、あとストロベリー、バナナ以外のフルーツのチョコとかも無理

子供舌ながらにバニラや、ミルク、ホワイト、いちご等のチョコレート、ウエハースとか本当に誰でも食べれる嫌いな人はいないような味のものしか食べれず、かえってそれは大好物の類でもあります。

そんな自分がコンビニの菓子の棚を横目に流しながら拝見した際、大きく私の関心をひいたのがこの「サマーアイスクリーム味」という文言。サマーバニラ味でもなければ、塩アイスクリーム味でもなく、サマーアイスクリーム?季節に味の概念があるのかとか、考えれば考えるほどソレが気になって頭から離れない。

結局家に帰って検索した。通販にはコンビニで見たものと違い大袋バージョンが売っているようだ。SNSや記事のレビューでは皆一様に「おいしい」というニュアンスの言葉だけ述べている。全く参考にならない。もっと食べたことない人でも味が容易に想像できるような食レポしてくれれば俺は買わずに済んだのに。せめて少しは味や食感について言及してくれよと思ったが、結局どんなに詮索したところで自身が食すことが確実な手段である事に変わりはない。時期はもうサマーを通り過ぎ秋に差し掛かっている。流石にもう売ってないか…?

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あった。だから早速レビューしていく。

まず外観は、まぁ最近流行りのゲーミング使用だな。全体的にはカラフルだが一つ一つ無地のビビットカラーで成り立っている。キットカットおなじみの小包の裏のメモ欄みたいな所は、サマーアイスクリーム味のテーマ(?)である科学で未来を作り替えようになぞらえて、キミの夢を書こうみたいな仕様になっている。ちなみにワイの夢は今のところ好きな人と結婚する事だ。夢というか中継地点の目標といったところか。

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既に食した跡がある画像で申し訳ございます、

見た目からして想像するは、ホワイトチョコのような色だが味は恐らくバニラ?ブツブツはもしかしてベリー系の果肉か?という感じ。

いざ食したところ、味はなんというか、ホワイトチョコとバニラが混じったような、本当にそんな感じだ。アイスクリームというには若干ホワイトチョコ感が強い気がするが。

そして例のブツブツはベリー系果肉でもチョコチップなんかでも無かった。パフみたいな食感がする。恐らく極小のパフかなんかだろう。咀嚼するとプツプツというような不思議な食感が味わえる。

そんなところだ。まぁ総評すると普通に美味い。流石に10個くらい食べるとくどく感じると思うが、それはこれに限らずホワイトチョコ系はおおかたそうだから

でも満足したかというと微妙だ。大体3つ入で二百いくら って高くないか?キットカットは量減値段増で名が知れてるが本当にこんなものだったとは…ただまぁそれもこれに限らずキットカット製品に言えることなので、キットカットサマーアイスクリーム味は普遍的な量、普遍的な値段、そして普遍的な美味しさが合わさった商品であることが分かった。