高田由良
最近Twitter見ていて鬱になることが増えました。
私のTwitterのホームに流れてくるツイートは、浮気サレ系1割、惚気系2割、女叩き系2割、震災系2割、そして美容垢抜け系が3割という構成になってる
それで、その美容垢抜け系のツイートとというのが大体、自分の顔のパーツや骨格に悩んでる中高生の投稿で、もはや今どき中高生で当たり前に整形とか気にかけてるんだとか思うんだけど、
自分の中での鬱ポイントが、JKとかの投稿見る度にそもそも私って高校卒業してからもう4年も経ったんだという事実を思い知らされることと、
最近のJCJKのみならず20歳以下の女の皆さん、皆当たり前のように恵まれた人生送ってそうでムカつくんだよなあ
私が年齢を酷く気にし始めたのは今の恋人と付き合ってからで、今の恋人は仲良いネッ友の女性が大体私より年下(上は私と同い年、下はJCにも及ぶ)なのだけど
特に仲の良かった女性が私より2つ下で、私と真逆の人生歩んでて、私の持っていない物全て持ってて、凄く腹立たしかった。
いや、そもそも自分は元々何も持たざる者だった
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人生が堕ちていくのって、些細なことの積み重ねだと思う
何処かから周りと履き違って行って孤立して自分に自信が持てなくなる
自分がソレの大きなターニングポイントになったのは明らかに中学の時だと思っている
ここからは自分の人生を振り返ってみようと思う。
自分の人生の振り返りだから長くなる。
思えば、
自分は生まれた時は陽キャだった。
小学生の頃も、陽キャだった。
でも何処かがおかしい。それは発達障害でもASDでもABCDでも表せない。ソレのせいで自分の人生は落ちる所まで落ちたんだと思う。
生まれた頃は、陽キャだった。
キレ症でヒステリック気味だが、運動神経が良くコミュ力お化けで面倒見の言い母(陽キャ)、
無言で家庭を守るが自分の得意分野になると周囲の空気感も厭わず多弁になるタイプの父(陰キャ)、
どちらも共通していたのは、過保護なことと、考えが古臭いところがあることと、パチンカス、ヤニカスであること。酒はどちらも全く飲まない
8歳上の姉。今思うのはやっぱり現代の若者だから両親よりは理解があって、両親よりも頼りたいと思える。
姉は産まれてから今までずっと陽キャ。中学ではソフト部のキャプテンだったし、高校では吹奏楽部の部長だったし。当たり前に就職して当たり前に社内恋愛で当たり前に結婚して当たり前に子供2人いる。当たり前に一軒家も買ってる。
自分がまず両親のどっちの血を濃く継いだのかというと、やはり父だろう
というか両親の悪い部分しか引き継が無かったと言いたい
父はどうか知らないが、母は駅伝選手になるほど運動神経良く、明るく、活発な性格なのにも関わらず、
自分は運動神経が全く無い、性格はのんびりマイペース、それでいてヒステリックな部分は色濃く受け継いでいる。
自分の知っている分野の話題が出るとうんちくを披露するかの如くぺちゃぺちゃ喋るのは父親譲り
ジジイみたいな喋り方しちゃうのも父譲り、もしかしたらひねくれやすい性格も父譲りかもしれない
私は小学生まで友達が沢山居た。陽キャだった。
小3くらいまではしょっちゅう陽キャの子たちと4人位のグループで一緒に遊んで、お互いお泊まり会とかもしたことがある。
だけど、幼稚園まで自覚出来なかったおかしさが、小学生になってから顕になり始めた。
まず、上履きや靴を何度注意されても左右反対に履く。治らなすぎて皆の前で怒られたことがある。
靴のかかとはずっとふんでる、体育帽の顎にかける白ゴムは噛みすぎて伸びてヨダレで黄色くなってる
鉛筆も噛む。どれも周りが当たり前にしてないことを注意されても直せない
怒られたことや、恥ずかしかったことを思い出す。
小3の頃、担任がスパルタ体育会系で、体育の授業が地獄だった。
自分のクラスだけ毎授業最初に校庭13週とか、エンドレス馬跳びとか、運動神経皆無の自分にとってはとにかく地獄のカリキュラムのオンパレードだった。
今思えば多分その時から親のタバコの受動喫煙とかで喘息だったんだろうけど、診断も受けずに自覚しないまま13週走っていた
それも個々人で自分のペースで走るんじゃなく、軍隊みたいに2列とか4列になって皆で整列したまま走るタイプ
だからついていけなくてもついて行かなくちゃいけない。勿論体力は続かない。走り終わった時はいつも呼吸がヒューヒュー言っていた
でも自分以外の全員は当たり前のように最後まで崩れず走っていた
エンドレス馬跳びは、馬跳び失敗するのが怖かった。
だって失敗したらその女の子の頭とか腕とかを蹴ってしまうことになるし、その後謝るのが本当にキツかった
しかも毎回飛ぶ相手が違うので背の高かったりガタイのいい女子だとより難しかった。
というか事実半分くらい失敗してた
そのような感じで、体育の授業では見せしめのように怒られることが多かった。
小4の頃、50m走を測ってて、自分の番になって走っていた途中、自分が走っているレールがどこか分からなくなり、隣で走っている女の子にぶつかって怪我をさせてしまったことがあって、周りの人に怪訝な目で見られた。
長縄で、自分が飛ぼうとした時に引っかかって転んだ拍子にズボンがパンツごと脱げかかって大恥を書いた。
小4の時、たまたま隣になった女の子と意気投合して、休み時間も帰りの時間も一緒に居るようになった。けど、それまで一緒に居た当時親友みたいな立ち位置だった子を裏切る形になってしまい、
結局隣の子には些細なことで嫌われ疎遠になり、
小5に上がって親友みたいな子とまた同じクラスになるもツケが回ってきたかのように親友の居るグループから受け入れて貰えず、初めてぼっちになる
その時の担任がハゲのおっさんで、
休み時間に1人で自分の机に居るとそれを見兼ねて呼び出してきて、手を握って慰めてきて、気持ち悪かった
中学に上がって、たまたま美術部見学で一緒になった2人(以下、AとB)と意気投合し、一緒に居るようになる
LINEで3人だけのグループ作って毎日夜まで雑談してたのが懐かしい。
あの頃が人生で1番幸せだったかも
でもこの日々が長くは続かなかった。
担任の粋な計らいで、3人同じクラスになれた。
勿論四六時中一緒にいる。どんな活動も同じグループになる。
パスート学習という名の学校独自の取り組みがあった。
グループで興味のある施設に訪問し、興味のある分野を調べて発表するというもの。
驚くことに先生抜き 本当にそのグループのメンバーだけで、果ては東京まで足を運ぶ。
私たちは上野動物園を選んだ。
しかしそこで私達は折り合いが合わなくなる。
友達は両方怠け癖があった
Aはそれに付け加え病弱?で、学校を休むことが多い
Bは指示されないと何もやらないタイプだった
自分もリーダー的人間じゃないから、本当に苦労した
殆ど自分で段取りを決めたり、アポイントを取ったりした。
結局Aは、パスート学習当日になっても来なかった
Bと2人だけで上野動物園に赴き、スタッフ室に行き、学習テーマについての話を聞こうとした
そこにいたスタッフの爺さんは宮崎駿みたいな人で、確かに取ったはずのアポイントを貰った覚えがないと言う。
忙しいのになんでこんなことしなきゃならないんだとか言われた記憶もあるが、覚えてない
とにかく泣きそうになったのは覚えている
そこから、Aに対する憎しみが深まったように思う。
休まれた代わりに自分が負うことになった苦労も知らずに、ずっとヘラヘラしているからだ。
記憶があまりないが、ある日Aに死ねとLINEで送り、Aの姉から二度と関わるなと言われた覚えはある。
そこからAとは関わることは無くなった。
3年からはBと一緒だったが、そもそもBは1人が合ってるタイプだった。
学校ではずっとラノベを読んでた。
LINEでは相変わらず雑談して、暇も潰せるが、学校では2人組とかが必要な時だけ一緒になる程度だった。
結局中学は、卒業式が終わるとBにも一言も挨拶しないまま、足速に親の車に乗りこみ家に帰った。
中学時代は、もう2つくらい大きな出来事があった
1つは、全く別の友人(C)との事だ
Cは私のことを友達とも思っていたし子分とも思っていた。クラスが一緒になった事がないから関わりが薄かっただけで小学生の時から家に行き合うくらい中が良かった。
中学に上がってからもっと仲良くなって、LINEでも話していたし、ソイツに当時ハマっていたツイキャスを教えてやって、2人でコラボ配信とかよくしてた。
そこからTwitterとツイキャスではネッ友の男2人と4人でよくつるんでいた
Cは配信の適性?があるというか元々目立ちたがり屋なので、ものの見事にキャス主という名に相応しい存在になった。
ピアノが引けるので弾き語りライブでよく人集めてた。
しかし、ソイツとも学校でいざこざが起きた。
Cは生徒会選挙に立候補した。立候補するには推薦者が必要で、推薦者になってくれと頼まれた。
友達だから快諾した。でも、CもAと似て病弱?で、よく学校を休んでいた。
結局、襷作りや演説の原稿作り、リハーサルへの参加など、ほとんどの仕事を自分1人でやる羽目になった。
襷作りは姉に手伝ってもらって家で徹夜で作った。
忘れもしない。その日の放課後にマーカーが必要で職員室に取りに行ったら、色んな先生にタライ回しにされ、それを見兼ねた先生に何故か嫌味を言われた。
Cは演説の日には流石に出席し、やり遂げたが、当選はしなかった。
でも褒められたりするのはCだけで、自分はあくまでただの推薦者にすぎなかった
特に注目を浴びることも成績に反映されることも無かった。
もう1つの出来事。これは私の人生が右肩下がりになる潤滑油と言っても過言では無い。
ある日、体育の授業の前にセカンドバッグから体操着を取り出そうとしたら、猫の小便臭かった。
家の猫におしっこをかけられていた。
もうすぐ体育の授業なので着ない訳にもいかず、
今思えば事情を話すなりして対処すれば良かったものを、そのまま着て体育の授業に出た
その日のことははっきりと覚えている。
すぐに臭いに気づくクラスメイト達。
「くさくない?」という言葉も確かに聞こえたが、皆それ以外は口に出さずとも自分を避けて居るのが伝わった。
隣の席のジャイアンみたいな男子からは机を離された。
帰りの準備をする時間、できるだけ臭いを振りまかないよう、動かずに座っていたら、
クラスの優等生みたいな女の子が、紙を机に置いてきた。
中に何か書いてあって、文章は忘れたけど、
「皆避けてるけど気にしないで」みたいなことが書いてあった気がする。
ここで自分の恥ずかしさが限界突破した。
そこから、対人恐怖症を患った。
その派生で、会食恐怖症、脇見恐怖症、吃音症、呑気症(それによる過敏性腸症候群も)を一気に併発した。
普段生活していて、他人のいる空間に居る時、自分の視線は常にどこを向けていればいいのか分からなくなった。これは今も治らない。
会食恐怖症は、過去の日記に書いてあるとおりだ。これも厳密には治ってない。
吃音、これのせいで国語の授業が一気に辛くなった。音読やスピーチはおろか、ひとつの文章すらどこかで言葉を詰まらせてしまう。
これも治ってない。
呑気症は、静かな空間で唾液がひたすら分泌されるのがひたすらにストレスだった。
この出来事がきっかけで、中学2年生から高校卒業するまで、(コロナによって違和感無くしているだけで今も)毎日マスクが欠かせなくなった。
加えて、自分は中学に上がってからギャル系の女子に目をつけられ普通に虐められていた。
きっかけは生理の血が体操ジャージのズボンに漏れて染み付いていたことに気づかず過ごしていたことだろうか。
そいつらの前を通り過ぎようとすると確定で指を刺され目配せでコソコソ何かを言われるので、極力通らないようにした。
自分は左利きなのだが、その女子が自分の斜め後ろの席に居た頃、授業中に、「左利きってなんかキモいよねー」と言われたことがある。
高校に上がったあとでも、帰りの電車で居合わせてしまい、「死ねよ」と言われたことがある。
電車を降りた後で、その事が頭から離れず、自転車で用水路に落ちてしまい血だらけになった。
高校時代については、会食恐怖症の日記に詳細が書いてあるが、お察しの通りの学校生活だ。
タダでさえ偏差値も低い制服もダサい田舎の公立だったが、生徒は皆良い人だった。
ぼっちの自分に手を差し伸べてくれた。
でもその時の自分にはもうその差しのべてくれた手の受け入れ方が分からなくなっていた。
彼らの優しさには応えられぬまま、孤立したままだった。
高校の時は、毎年春休みになると自殺未遂していた。
高校に入る前の春休みには首吊り、高校2に上がる前の春休みにはヘリウムガス、高3に上がる前の春休みには煉炭。
結局4ぬ勇気がなく、使用した自殺用具は親にバレぬようクロゼットの奥へしまった。
途中から転校して通信制の高校に通った。過去のブログ「校則について」にて詳しく書いてある。
通信制はただ楽だった。
月2日しか通学しなくて良いし、その2日以外は本当に家でレポート書いてればいいだけ。
しかもそのレポートも学校に行かない分、量が多いとかでもなく、片手間で終わる程度だった。
週に土日しか入れてないバイト以外の平日は家で命令された家事をやってればいいだけの生活だ。
といっても、結局教習所に通い詰めの生活だったのだが。
進路は、親に大学へ行きたいとカマをかけてみたところ、
「どうしても学びたい分野があるとかじゃないと行かせられないよ!ウチはそんな金無いんだから生活費も入れてもらわないと困るんだから就職選んどきなさい」
みたいなことを言われて、ネットに程よく毒された今時のマセガキ達はこれを聞くと真っ先に毒親だなんだと思うだろうが、当時の自分にとっては進路とか考えたくもなくて、親に流されるまま就職を選んだ。
思えば高校選びの時から商業高校選ばされてたし、私が自分から就職を選ぶように就職に偏った考えをじんわり教えこまれていたのかもしれない。
商業高校時代に取った簿記3級やその他の片手間の資格でようやっと正社員で入れた事務は、川越(ほぼ狭山)の端くれにある工業地帯の工場だった。
見るからに中小企業の中でも下の方なのに、支社が全国に結構あって、入社式は四国の本社でやる予定だったがコロナでリモートになった。3泊4日でしかも山登りとか大声スピーチとかあったから本当にラッキーだった。
自分の勤務先の工場は1ヶ月後に私の住んでいる所の近くに移転するので、それまでマンスリーのレオパレスを借りて住んでた。
レオパレスに住んで(社会人になって)すぐの頃に、初めての彼氏が出来た。
彼氏はよく遊びに来て、会って二回目くらいですぐ初みくすもしたし、実家から会社に通うようになっても毎週会って、付き合って1年で同棲もした。
同棲中は自分の貰った給料をスマホ代以外彼に渡していた。
しかしすぐに、途中で何度も浮気をされていた事が発覚した。
付き合いたての頃、安い給料から貯めて捻出した10万で彼にプレゼントしたiPadも浮気に使用されていた。
そこから自分は些細なことで癇癪を起こして家中の物を壊すようになった。
彼のことも信用出来なくなっていたが、別れると生きる理由が無くなるくらいにまで依存していたので別れることが出来なかった。
彼氏が私を止めるために殴って傷害で捕まるまでの1年間同棲生活は続いた。
実家に帰ってからは、寝たきりだった。というのも自分は恋人(依存先)が無いと生きていけないので、恋人が居なくなってぽっかり穴が開ききって死ぬことしか考えないでいた。
親に保険料の催促が〜とか時々言われるけど親名義だし自分は今無職で金が無いから気にしなかった。
この時、自分の人生はいつの間にここまで落ちてしまったんだろうと思った。
自分は自分の人生で努力することもしたくない。
でも、今の自分と同年代の年下の女が、私の人生みたいな経験をしてきたとは到底思えない
私の高校時代は1人で目立たぬように過ごし、Twitterで日々淡々と壁打ちしているだけだった。
かたや2歳下のある女は、その高校生活の間で、私の好きな男にまで惚れられ、高校生であるにも関わらず高級店にも連れて行って貰えていた。
この落差って一体何なんだろう。どのようにして生まれるんだろう。
自分は高校時代は勿論、卒業してからの4年間に何の意味も感じていない。
ここまで書いた不幸自慢も世の中のあらゆる事象から見たら些細なことである。
でも、
誰かこの些細な出来事の積み重ねがきっかけで人生がだんだん右肩下がりに落ちていく現象に名前を付けてください
終わり